2015年7月26日礼拝週報
平和経 『生死に対する理解』より
死と闘って勝利できる希望(P484~P485)
皆様。この世のすべてのことは過ぎ去るのです。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはどのような主義や思想もすべて過ぎ去るのですが、最後まで残らなければならないものとは何でしょうか。それが正に、死と闘って勝利できる希望です。私たちにそのような希望がないとすれば、「私たちは人生の敗北者である」と言わざるを得ないでしょう。この世には、生まれながらにしてこの世的なすべての希望を一切拒み、人間の世の希望ではない天の希望、すなわち永遠の希望を抱いて生きる人たちがいます。
私たちが若いときには、死についてあまり考えませんが、年を取るほど、死について徐々に深刻になります。ここに座っている皆様も、この場に立っているレバレンド・ムーンも、いつかは死ぬようになっています。このように死というものは、運命の関門です。
誰も避けられない道だからです。私たちが死んだのちには、果たしてどうなるのでしょうか。死という単語を使った目的とは何であるか御存じですか。生の意味を知らせるためです。生の価値は、誰がよく知っていますか。生きようと身もだえする人には分かりません。死ぬ境地に入り、生死の岐路で天にすがり、生の価値を打診したことのある人でなければ分からないのです。
それでは、私たちはなぜ死を恐れるのでしょうか。私たちはなぜ生まれたのか、その目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知りません。それで哲学でも最初に問う質問が、人生とは何であり、人間はなぜ生まれたのかということです。
皆様、私たちが死ぬということは、神様の愛の中に生まれることなのに、人間世界では「ああ、死ぬ!」と言って大騒ぎです。それを見る神様は、にこにこ笑われるでしょうか。それとも驚き、悲しむでしょうか。喜び、うれしく思うのです。限られた地上の愛の圏内から無制限の愛の圏内へと突入できる喜びを迎える瞬間が、肉身が死ぬ瞬間、すなわち第二の出生の瞬間だからです。
だとすれば、神様は、私たちがこの肉身世界に生まれた日を喜ばれるでしょうか。それとも第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子、娘として生まれるその時間をもっと喜ばれるでしょうか。もちろん後者です。私がこのような話をするのは、皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。